離島生活で思ったこと

沖縄の離島で暮らす中で思うこと、考えたことをつらつらと書いています。思考のウンコのようなものなのでまとまりはないです。

1月13日 ひっちゃかめっちゃかの文








曇り。












夜に雨が降り、辺りが濡れている。









雨が降ると、

一ヶ所、ぴっちょんぴっちょん音がする部分がある。

雨漏りしてるんじゃないかと毎回心配になる。


前に何故か一部分だけ屋根が没落していた箇所があり、一応の修復はしたのだが、ピンホールから漏れて外壁の隙間に落ちてるんじゃないと疑っている。
(о´∀`о)



いっそのこと、

家まるごと建て替えられる健全なお金とチャンスが舞い込みますように。



















水増し疑惑を持ったソマチッド水については、

モヤモヤした気持ちを持ち続けるのは嫌だったので仕方なく販売元に電話して聞いてみた。


でも、

予想通り?出てきた回答は、「そのような(水増し)ことはありません。製造ロットによって色が付いたりつかなかったりします。」

とのこと。。





つまりは、もう

エビデンスもなく信じるしかない、ということ。

それが嫌なら返却、返金を求めるしかないとのこと。

交換してもらうにも、在庫ロットはみな送られてきたものと同じものしかない。

信じるか、
納得できないなら返却・返金か。






消費者には何が本当か確かめる術がない。。

(´-ω-`)








結局、


もやもやした気持ちは消えないまま、

「何だかな…………」という濁りが残ったまま終わった。





疑いたい訳じゃないけど、

信じられる根拠も ない。



嫌なら返却、という


付き合ってた人に浮気疑惑が発生して嫌なら別れたら?といわれたカンジ。






疑いながら過ごすよりは返金要求か………





何だかなぁ。。


電話代がもったいなかったなぁ。。(´-ω-`)





















島にいると、




人間の薄汚い内面を目撃する機会が多い。

社会が小さく狭いから。


見たい訳ではないのに見えてしまう。




別に、それを求めている訳ではないのに


実は無意識に求めているのだろうか?









確かに、

綺麗でオメデタイ部分だけ見て生きるのもどうかと思うけど……

あんまり生々しい部分を見るのもねぇ。。








自分が穢れてて薄汚い考えを持ってるからそう見えてしまうのか………??



それも否定できないけど





人間って別に綺麗なだけの生き物じゃないよね。





みんなが嫌がって触りたくもないウンコは常に身体の中にあるのよ。

身体の中にあって、一緒に過ごしてきたくせに、外に出てきた瞬間「うわ汚ねっ!」って忌み嫌うのよ。




何だかね。










臭いのは、菌が、分解してくれてる時に出す臭い。ガス。悪玉菌が優勢だと腐敗する。
善玉菌優勢だと、別に臭くはない。

ビーガン生活してた人は、ビーガン中の便はむしろ良いニオイだったと言っていた。


善玉菌が優勢になると、『発酵』する。いわゆる調和の世界。







食べ物も、『発酵』したものは基本的に腐らない。

いわゆるこれが不老不死ではないかと思う。




が、


発酵が進むと、お酢のように「酸っぱく」なる。

本物の梅干しは何百年経っても全く大丈夫。むしろ、時間を経るほど効能を増す。


が、

激烈に「酸っぱく」て、私は苦手である。
(о´∀`о)









『発酵』はとても良いものだけど、

発酵が進み熟成しきってしまうと酸っぱくなって
正直食べづらい。好みが別れる………むしろ嫌がる人も出てくる…………
(о´∀`о)









なぜ世の中は平和が続かないか、争いは絶えないのか、悪は滅びないのか、




なんとな~く…………分かる気もする………
(´-ω-`)




恐らく、

恐らく、、




酸っぱいのばっか食べられねぇよ、

ってのと同じ?








どんなに味噌が身体に良くても、

味噌ばかりを食べ続けることはできない。




他の食材もあっての味噌。











何でもほどほどが一番。







何でも行き過ぎたら毒。

















やっぱね、



『答え』は既に、そこかしこに在る。




ただ、我々が気付けないだけ。










人間が善だけでないのも

薄汚い面があるのも





お空だって晴れたり曇ったり嵐になったり移ろいゆくもの。

春と秋は最高に過ごし易いのに、一瞬で終わってしまうのは
冬と夏の切り替え時期に訪れる束の間の隙間。

巡りめぐることでしか生まれない、《丁度良い。》











中庸を目指すものの中庸になれないのは、

きっと季節の春と秋のように束の間しか訪れないものだから。



だから完璧を求めて完璧になれなくても、

いっときにしか完璧にできなかったとしても、
責めなくていい。

それが、当たり前のこと。(とりあえず今いるこの世の中では。)





《丁度良い。》は、もともと春と秋のように、長く永遠に続くものではない。


人間も人間関係もきっと同じ。






メディアの見せる完璧を目指すんじゃなく、


もっと自然に目を向けたほうが良いよね。




自然は完璧、って思いがちだけど、

何も生えてない荒野やとんでもない毒を有した植物や動物がいたり、マグマに氷山、晴天があれば嵐も巻き起こして、

けっこーハチャメチャです。

それを、「多様性」と体よく言ったりするけど。




けっこー実は自然界だってハチャメチャなので、


理想が続かないのも当たり前なのです。






それをメディアは、繰り返し同じテープを流せば済むから、繰り返し繰り返し理想を突きつける。「こうでなければならない、こうでないといけない、」を、壊れたテープのように繰り返す。てか、だから壊れるんだろうな……













つまりは何が言いたいかっつーと、、

もう細かいことはあまり気にせず、自分のやりたいようにやるしか……ないんだな。。


人を哀しませることしなければ、

大概のことはオッケー。












罪を憎んで人を憎まず










なんくるないさ



なのです。