離島生活で思ったこと

沖縄の離島で暮らす中で思うこと、考えたことをつらつらと書いています。思考のウンコのようなものなのでまとまりはないです。

6月20日 ふるえ賜え勇気を。震えたまえ魂。






晴れ。








目茶苦茶良い天気。










がっつり晴れていたので
薄手の羽毛布団を洗った。




毛布も洗える!ということで買った二層式洗濯機・ハイアール8kgである。



まだ毛布は洗ったことないけど、

薄手の羽毛布団は楽勝だった。







でもこの8kg仕様。。

洗濯槽は5.5kgより大きいのは当然としても、

脱水槽のサイズは同じなのよね………
(てか、8kgになると何故かステンレス槽ではなくなって、ただのプラスチック槽になる。何故……)



毛布が洗えたとしても、

その毛布は脱水槽に入るの??
(о´∀`о)




ちょっと恐くて、

未だになかなか毛布にはいけてない。



天気も、がっつり晴れてる日じゃないと干せないし。




まだ梅雨は明けてないし、

最近にわか雨が多いから、

大きい洗濯物はリスキー。






カーテンも埃まみれだから、早く洗いたい。。




洗濯物に追われる日々。























今日は実家の隣の家が火事になる夢で目覚め、


夢だったとはいえ、けっこう焦った。







最近寝る前にSNS を見てしまうので、

夢見も悪いし

ちょくちょく目が覚めて寝れてない。




寝る前のSNS はよくないと知ってるけど、
精神を満たす為に、見たくなる。




バランスを保つのは難しい。






それでもクーラーがあるおかげで、

以前に比べればぐったり感は減った。




クーラー様様です。ありがとうございます。




クーラー自体は元々苦手だし、頭痛くなるので極力使いたくはないのだけれど、

沖縄では強烈な湿気もあって、使わないと慢性的な熱中症になると思う。



東京にいた時は、38℃の部屋にいても全然平気だったんだけど。。


沖縄は、やっぱしちょっと次元が違う。





















他、

特に変化なし。通常モード。




ただ、


嫌な思考回路に陥ってしまい、
勝手に思考し始めて勝手にイライラして動物に八つ当たりしてしまった。



これはホントに反省。ごめんなさい。











最近、

なんとなくだけど

虐待する人の気持ちが分かる。






きっと、

やるせない想いがあって、辛くもあって、
でもどうしようもなくて、
自分じゃ何もできなくて、
哀しい辛い記憶がぐるぐるして、自分の中から溢れてしまった時にふと、手を上げてしまうんじゃないかと思う。。

勿論、

エネルギーを向ける方向が間違ってるけど。




言われて辛かったこと、

哀しい扱いを受けたこと、

自分の努力や気持ちが報われず、無下にされたりしたら、


それはそれは辛くて哀しくて

やりきれない想いはやがて怒りに変わり、暴力となる。


他人に対して暴力をふるうに限らず、自分への暴力になったりね。。自分を自分で粗末に扱うのも、一種の暴力だと思うし。

それが行き過ぎると自殺しちゃったり。。




暴力は、他人にだけやってるものではない。







他人への暴力は勿論よくないし、

自分への暴力もよくないし、


かといって行き場を失った想いを抱えてるのも辛いしね。。




どうしたら、良いんだろうね。。







何も考えずに、楽して豊かに愉しく生きられたら良いのにね。


“何も考えずに”、ってのもどうかと思うしね。

かといってあんまり考えても苦しくなるし。




この世はねじれているから、

歪んで、矛盾している。



















早くねんねして、

楽しい夢に浸っていたいと思う。





こんな

姑息な奴が得する世の中はこりごりだ。




人の汚れなど見たくもなし。









しかし私も汚れている。






姑息な場で姑息に生きていた北海道があれだけ楽しかったのは


きっと姑息な生き方をしていて楽して得を得ていたからだろう。



あの夢のような毎日が夏休みだった日々は
姑息さの上に成り立っていた。









誠に複雑である。





誠に見事、汚れと誠実さが同居する自分。









自分の中に陰と陽。







自分にもある。


他人にもある。






許せ。



そして感謝を。











赦しと感謝。




やはり究極。



















暴力はいかん。




暴力ふるう前に、勇気をふるえ。







暴力をふるう前に、

自分が勇気を出して一歩踏み出すべきなのだ。



それだけは

痛感する。