離島生活で思ったこと

沖縄の離島で暮らす中で思うこと、考えたことをつらつらと書いています。思考のウンコのようなものなのでまとまりはないです。

5月22日 世界は無常で無情。

曇りのち雨。





久々のまとまった雨。







まったりモード。



てか、


ぐーたらモードに。








いつも以上に酒を飲み インスタントラーメンまで食べてしまった。体液が酸性になってしまう。ヤバイ。

どうして楽しい娯楽は身体に悪いのか。


最近の謎である。





だいたい、『悪い』ことは楽しい。

『悪い』ことをするのはラク

悪さをする、堕落していくのは堕ちるに身をまかせるだけなのでラク




良いことするのは大変。

良いことしてもディスられる。褒められるとは限らない。結果が出るとは限らない。
良いことには苦労がつきまとう。





えー、なんだこの世の中?と思う。


物事には必ず二面性があり、

良いことしても悪い面があり、

ならば

悪いことしても良い面もあるのでは? とか思う。


戦争目的で開発した技術が後に市民の間で役立ったり。。(インターネットとかね)




なんつーか、

必ず二面性があるっていうなら、「悪いよ~」とされてることをしたって実は良い面もあるのだから、悪いよ~ってされてることをしてもいいのでは?? とか無茶苦茶な理論まで頭をよぎった。(о´∀`о)

や、でも自分のしたことは自分に還ってくるから、やっぱ悪いと思うことは止めといたほうがいいと思うけどね。



良い人でばかりいても、良いことがあるとは限らない。

悪い人のほうがどちらかといえば行動力もあってエネルギッシュだよね。(まぁそれは他人を犠牲にしてエネルギーも吸ってるからだと思うけど)






なかなか

世の中 幸せになるって難しいと思う。


幸せを感じることなら、比較的簡単だと思うけど、

幸せな暮らしを維持してくってのが、なかなか意外と大変かもと思ったりする。




バカでボンクラだったら幸せかもって思ったりするけど
そおいう人は周囲に迷惑かけてたりするし。

周りに恨まれてるのに、それに気付けないから幸せ、ってのもどうかと思うし。それでも一生気付けないままなら一生幸せかもしれないけどさ。


周りも幸せ、自分も幸せ、な状況をつくるのが
本当の幸せなのかな 。







いろいろ

模索中。








夢、

自分の心の傷、


向き合い中。





みんながみんな、心の傷を癒せたら、この世の中も良くなるのではと 思案中。



あまりにも未浄化な心(霊)が多いのかも、とか。。



何かや人を恨む気持ち、分かります。

でも、何かや誰かを恨んでる時って、何より自分がまず傷付いている。


やられたからやり返していいんじゃない。


やられたからからこそ、二度とやらないようにしていきたいんだ。


自分の哀しみを広げない。

自分の傷を自慢しない。

他人を嫉妬しない。



この

嫉妬がまた厄介。


親だって子供に嫉妬する。それが虐待に繋がる。


いやもう止めよう。負の連鎖は断ち切ろう。






ホーリーバジルとかミントとかって、すごく丈夫で茎の途中で切っても水に差しとけばそっから根っこが出てくる訳。で、根っこ出してから土に植えればまた花が咲いて種を付けるの。


このイメージ。




蘭みたいな限られた環境でしか生きてけない手入れが必要な弱々しい植物目指す必要無いのよ。まぁ蘭は花咲いたらそりゃ綺麗だけどさぁ。奴等は本来限られた環境でしか生きられないひ弱な奴なのよ。そんな奴になったら気軽に旅行なんて行けなくなるよ。

我々庶民はどこでも生きていける、虫も逃げてくクセあるハーブ類でいいと思う訳さ。

もっと丈夫な奴はさ、根っこでも増える、種でも増える、茎が倒れても節から根っこ出せる、つる草伸ばしてまた増える、牧草とかがそうなんだけど、この牧草はホント最強なのよ。干魃にも長雨にも強いし。牛はこの牧草を食べるだけであの大きな身体になる。バターや生クリームの素になる生乳も、牧草食べてるだけで生成できてる訳で。牛も凄いが牧草も実は凄いのよ。てか、植物って凄いの。


我々庶民は、この牧草並みの生命力を持ったらいいと思うさ。
除草剤かけられたって、焼かれたって、また芽を出してくるんだよ。奴等は強い。




自分の中にも辛い、記憶や潜在意識があります。

いつまでもそれを持ち続けていくのは止めたいと思う。

自分のために 自分のエネルギーを使っていけたら、みんなみんな、凄いことができちゃうんじゃないかと思う。
嫌いな奴や哀しい記憶にエネルギー使うの、もう止めよう。








世界はフラクタル構造ですから、

何で世界はこんななの??って時、

私は たとえば植物の世界を人間界に置き換えて考えます 。



植物の助けて、って声が分からないなら

我々の助けてって声が神様に届かなくても当たり前だと思うのです。



助けてもらうには

気に入られなくてはならない。

ちやほやされる蘭の花のように。愛でられる花々のように。



《雑草》になると、生えてるだけで生きてるだけで邪魔者扱いされ、踏まれ、農薬をかけられ、最悪抜かれて根絶されます。“雑草”にとっては、人間は悪魔そのもの……



牧草とか、雑草は強くて確かに良いんだけど、それだけでもダメなのが今の世の中かなーと。。有益性があれば、大事にしてもらえる。その辺が、選民思想。。
そこそこ強くて、綺麗で、有益性もあったらいいのかしら・・?





真理は単純明解矛盾なし。







無常で

無情なものかもしれません。



つか、単なる弱肉強食か??( ´∀`)





結局、したたかに器用に生きる奴が得するのかもね~とか 考えたりします。無情ですが。世界は無常ですから。




まぁ でも……




そんなの考えてたらホント

生きるのが虚しくなりますね。


生まれたことにも
生きてることにも 意味は無いんですもの。


楽しんだ者勝ち、って、ある意味真理です。


幸せを たくさん感じた者勝ち、です。






とりあえず



難しいことは考えず


ためらわず遠慮せず 幸せをたくさん感じて増やしていくのが良さそうです 。